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ノーベル賞受賞第1報 [記事はこちらから]
幸運の女神は予期しないところにやって来るものらしい。 米IBMワトソン研究所フェローとして研究生活を送っていた江崎玲於奈氏にノーベル物理学賞受賞の吉報が届いたのも、その例外ではない。 江崎氏から聞いた話では、第1報は1973年10月23日の朝7時45分、ニューヨークのラジオ局の記者からだった。家族に促されて眠気まなこで受話器を取ったところ、・・・・

不良解析が生んだノーベル賞 [記事はこちらから]
江崎氏がノーベル物理学賞を受賞したトンネルダイオード(エサキダイオード)は、ラジオ用トランジスタの不良解析のなかから生まれた。 1950年代半ば、ソニーではゲルマニウム結晶に入れる不純物(リン)の濃度を高めたトランジスタを開発したが、不良品が大量に発生する問題に直面した。不純物濃度が高いほど素子の増幅率が高くなる。結晶の性質を壊さないで、どこまで不純物濃度を上げられるか。その仕事を任されたのが、神戸工業から移籍したばかりの江崎氏だった。 ・・・・・

ストックホルムでの授賞式 [記事はこちらから]
ノーベル賞受賞の最大の見せ場は、同賞の総本山ストックホルムのコンサートホールで開かれる授賞式である。賞を出す側、賞を受ける側の双方にとって少なからぬエネルギーと興奮を伴うようである。江崎氏にしてもそれは同じで、「たまたま受賞の順番が自分が最初で、しかも新国王が手渡す初めてのノーベル賞とあって格別の高揚感を感じたものだ」と語っている。 授賞式が終わると国王の参列の下、800人を集めた大晩餐会が開かれ、式典の最大のヤマ場を迎える。 ・・・・・

特別企画「江崎さん、おめでとう」 [記事はこちらから]
江崎氏のノーベル賞受賞が決まった直後の「電子材料」1973年12月号では、「江崎さん、おめでとう」と題した特別企画で、日本の半導体関係者17人からお祝いの言葉を頂いている。この企画については、自著『限界への挑戦 私の履歴書』(日本経済新聞社)のなかでも特に触れ、「直ちにお祝の言葉を寄せてくれたことに感動を覚えた」と次のように書き加えている。 ・・・・・

受賞決定前夜の超格子づくり [記事はこちらから]
写真は前掲の「電子材料」特別企画に対する江崎氏の礼状である。冒頭に「翌12月8日には授賞式のためストックホルムへ向かう」と記されているように、文字通り「多忙にまぎれて」の書信だった。それでも5枚の用箋にびっしり書き込まれるあたりに、江崎氏の思いやりの深さと気まじめさを読み取ることができる。 ・・・・・

「超格子」誕生の聖地 [記事はこちらから]
江崎氏が1960年にIBMワトソン研究所に移籍した際、「エサキダイオードの研究を離れて、米国でしかできないようなスケールの大きな研究をしたい」という思いがあった。その思いが結実したのが「超格子」というまったく新しい概念の提唱(1970年)である。 私は氏のノーベル賞受賞直後の1974年5月、ワトソン研究所を訪問して超格子の研究室をつぶさに見学した。 ・・・・・

江崎氏の卓抜なるアナロジー [記事はこちらから]
江崎氏の話を聞いていつも思うのは、アナロジー(類推)が卓抜なことだ。 いつかの座談会の際、こんな話をされた。「日本人はとかくできた製品だけを見てアメリカと比較するが、これは本当の勝負とはいえない。オリンピックの競走は同じコースを走って1位と2位の差は何秒と非常に近接した量であらわれる。しかし、科学や技術の世界では、1番と2番の間に質的な違いがある。 ・・・・・

エサキダイオードは主流に非ず(?) [記事はこちらから]
江崎氏との付き合いは、早くも40年以上を数える。最初の出会いは「電子材料」創刊間もなくの1968年夏、高木昇東京大学宇宙航空研究所長らとの座談会を企画した時のこと。当時、江崎氏が日本に帰国されるのは2年に一度程度で、日本の土を踏むと超多忙の人なった。ようやく時間が取れたのは米国に帰着される当日の早朝、帝国ホテルの一室だったように思う。 ・・・・・

HEMT発想の巧妙 [記事はこちらから]
江崎玲於奈氏が提唱した「超格子」を世界で初めて実用化に結びつけたデバイスが高電子移動度トランジスタ(HEMT)である。富士通研究所の主管研究員だった三村高志氏(現フェロー)が1979年に開発した。 三村氏の非凡なところは、数十層から100層近く積み重ねた超格子構造からたった1組だけを取り出し、これをトランジスタに仕立てたことだ。2階建て構造のうち、2階にあたる電子発生層の役目を果たすのが ・・・・・

量子デバイスのパイオニア [記事はこちらから]
「量子デバイスの榊」として世界中から注目されている榊裕之氏が、この研究に取り組んだきっかけが面白い。 氏は1968年に東京大学工学部を卒業しているが、学んだ学科は「電子」とは縁の薄い電気工学科で、 「将来は発電関係の仕事をやりたい」と考えていた。それが半導体の研究に転身したのは、時代の流れを敏感に感じ取ったからで、卒業後は東大生産技術研究所を拠点にしてMOS型FETの研究に取り組んでいた。 ・・・・・

室温連続発振レーザーに賭ける [記事はこちらから]
2000年のノーベル物理学賞受賞者の一人にロシアのZhores I. Alferovがいる。1970年にガリウム・ヒ素とガリウム・アルミ・ヒ素の2種の薄膜を使って室温連続発振する半導体レーザーを開発した功績が認められた。 ところが、まったく同時期に同じ成果を上げていた日本人研究者がいた。米ベル電話研究所の林厳雄氏である。 氏は63年に渡米、MITを経て64年にベル研入りを果たしている。 ・・・・・

研究活動における「偶然」と「幸運」 [記事はこちらから]
室温連続発振半導体レーザーの開発に成功した林厳雄氏は、これを機に日本に戻ってNEC中央研究所フェローや光技術研究開発つくば研究所長などを歴任する。 何度か取材に応じていただき、技術論や研究方法論を交わしたが、話が進むうちに熱を帯び、約束の時間がとうに過ぎていた。その時の取材ノートから、いくつかの話を拾うと――。
 「私の50年にわたる研究生活には、ずいぶん偶然の要素が働いた。 ・・・・・

西澤潤一氏の「半導体メーザー」特許 [記事はこちらから]
室温連続発振半導体レーザーに関する前出ベル研グループの快挙を私が初めて耳にしたのは、1970年7月初旬のことだ。人もまばらな土曜日午後、突然編集室の電話が鳴り響いたので受け取ると、 当時東北大電気通信研究所の西澤潤一教授が林氏らの成功を伝えてくれた。 西澤氏がこの成果に格段の関心を払ったのは、氏自身が半導体レーザーの考え方など及びもつかなかった古い時期に、 それを着想し、特許化しているからだ。・・・・・

メダルになった「ミスター半導体」 [記事はこちらから]
元東北大学総長の西澤潤一氏といえば、半導体、光通信分野の功績が認められて、国内外の賞を独り占めしている感が深い。受賞していないのはノーベル賞ぐらいなのだが、そのノーベル賞にして も何度かノミネートされて涙をのんでいる。 そんな西澤氏の業績を記念して、米国電気電子学会(IEEE)が2004年、「ニシザワ・メダル」を創設したのは、日本の電子工学界にとって朗報だった。・・・・・

青色発光に魅せられた研究人生 [記事はこちらから]
ピカソが人間の苦悩を青で表現した「青の時代」に照らしていえば、発光ダイオード(LED)もまたそのさなかにある。その青色LED時代の扉を最初に開いたのが、名城大学教授で名古屋大学特別教授を兼ねる赤崎勇氏だった。 研究者の間では、青色発光の有力材料としてバンドギャップの大きい窒化ガリウムが知られていたが、融点がダイヤモンド並みに高いため結晶の製作が難しく、・・・・・

青色LEDの工業化で先鞭 [記事はこちらから]
青色LEDの「研究」のパイオニアが赤崎氏なら、「工業化」で先鞭をつけたのは日亜化学工業である。同社は徳島県阿南市に本社を置く蛍光体材料の国内大手だが、金属ガリウムの精製を手がけていたこともあって、 窒化ガリウム半導体の研究に取り組むには好都合だった。 同社では、1980年代に入ると、有機金属気相成長装置を導入するなどして窒化ガリウム薄膜の生成などに取り組んできたが、・・・・・

予告なしの「CCD」発表 [記事はこちらから]
デジタルカメラなどの撮像素子として普及した電荷結合素子(CCD)の登場は突然だった。1970年3月下旬、米ベル電話研究所のWillard Boyle氏がIEEE主催のパネル討論会「1970年代のICはどこへ行くのか」で予告なし に自らの成果を発表したからだ。写真はその討論会に参加したパネリストを撮影したもので、中央のBoyle氏をはさんで・・・・・

64画素のCCDで「S」の字 [記事はこちらから]
ベル電話研究所の新半導体素子「CCD」の情報をいち早く入手していたのが、当時ソニーアメリカの社長だった岩間和夫氏である。1969年の暮れ、ベル研を訪ねた岩間氏は当のBoyle氏からこの新素子の話を聞いて、 自社の民生機器開発に役立ちそうだと直感した。ソニーは70年12月、中央研究所を拠点にしてCCDの開発プロジェクトをスタートさせている。・・・・・

墓石に貼り付けられた25万画素CCD [記事はこちらから]
ソニーは1973年、CCDを研究開発の5大テーマの1つに選ぶと、小型CCDカメラを想定した開発を始めている。「5年以内に5万円以内でつくれ」と岩間氏は大号令をかけ、「競争相手は電機メーカーではなく、イーストマン ・コダックだ」と開発陣を鼓舞している。いざやって見ると、感度や解像度の問題で一筋縄には進まない。・・・・・

アモルファス半導体ブームの火付け役 [記事はこちらから]
Stanford Ovshinskyと名乗る人物から電話がかかってきたのは、1969年の春まだ浅い頃だった。直感的にアモルファス物質の研究で話題のOvshinsky氏であることがわかった。前年11月発行の米物理学会誌に「不規則 構造中における可逆的スイッチング現象」と題した論文を発表、その評価をめぐって様々な論議を呼んでいた。・・・・・

アモルファスの太陽電池利用 [記事はこちらから]
アモルファス半導体の国産技術では、三洋電機のアモルファスシリコン太陽電池が話題になった。その開発を一身に担ったのが、長らく同社研究部門で活躍し、後に社長に昇りつめた桑野幸徳氏である。 同氏は1963年に入社すると直ちに中央研究所に配属され、「好きなことをやれ」といわれたが右も左もわからない。取り組んだのが、大学で手がけていた放電の研究で、・・・・・

 第V部 おわり

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